厳美渓

【天然記念物】厳美渓とは

厳美渓の歴史

 古くから景勝地として親しまれており、仙台藩の直轄地として一帯を治めた伊達政宗もこの地を賛美している。天明6年(1786)には菅江真澄が訪れ、その景観を紀行文にし広く紹介している。明治14年(1881)8月には、明治天皇の東北巡幸の際に御代覧として北白川宮殿下がお立ち寄りになっているほか、文人・幸田露伴もここを訪れ紀行文を記している。

厳美渓の名所解説

長者滝橋(ちょうじゃだきばし)

 別名、目鏡橋とも言われている。昭和9年の架け替えの際、橋脚も橋も鉄筋ではない「竹筋コンクリートアーチ橋」で、国内でも珍しい橋である。
 その昔、大すみの長者が一つの滝から金を、別の滝からうるしを汲んで京にて商いをしたと、また、別の言い伝えでは盗賊の襲来に備えて、宝物をこの滝に沈めておいたとのことから、この滝を長者滝と呼び、その滝を眺めるように架かる橋を長者滝橋と呼ぶようになった。

惜(あたら)の滝

 享保3年(1718年)秋、儒者の呑響と塩釜神社宮司の藤塚智明とが滝の上部で紅葉を愛でながら酒を酌み交わしていたが、藤塚が足を滑らして滝壺に落ち帰らぬ人となってしまった。呑響は大いに悲しみ、あったら友を失ってしまったと嘆じたことから惜(あたら)の滝と呼ばれるようになったとの言い伝えがある。

厳美渓
杖曳岩(じょうえいがん)と庚申岩(こうしんいわ)

 厳美渓の中心地、空飛ぶだんごの郭公だんごが買える東屋付近の右岸の岩を杖曳岩と呼ぶ。かつて、源義経をはじめ、春の観桜、夏は清流や木陰に涼をもとめ、秋の紅葉、冬の冠雪など四季の折々に、この地に杖を曳く遊人、墨客が数多くいたことから杖曳岩と呼ばれている。
 杖曳岩の向い岸、郭公屋の下の岩には、庚申供養の「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が大きな岩に刻まれていることから庚申岩と呼ばれている。

甌穴(おうけつ)

 溶結凝灰岩の節理の交叉点または岩石表面のわずかな凹部がもとになって、そこに水流が目まぐるしい速さで回転する渦流を生じ、さらに、この水流に運ばれた岩片が渦流中に捉えられて、遠心力とともに水流による浸食作用を加勢し、ついに、かめ穴とも呼ばれる甌穴(ポットホール)が形成される。
 この微地形は厳美渓特有の現象ではないが、厳美渓には直径が1mを越えるものも稀ではなく、現在、水面下で盛んに発達中のものや、かつて生成して休んでいたものが大雨で再発達を遂げるものなど、様々な発達過程のものがあって面白いと言われている。

貞山桜(ていざんざくら)

 厳美渓の両岸に、伊達政宗公が仙台市榴ヶ岡の植栽と同年に、千数百本の桜を植えたと言われている。現在は、旧国道342号線沿いの天工橋(てんぐばし)付近と温泉神社境内に、数本の老木として確認できるのみ。
 厳美地方が伊達藩の領地であった頃、藩主である政宗公の別名が貞山公であったことから、この呼び名となった。植物分類学上はエドヒガンである。

御覧場(ごらんば)

 温泉神社の鳥居の向いから下へ降りると東屋がある。ここは上流の天工橋付近を眺めるのに絶好の場所となっており、明治14年に明治天皇東北御巡幸の際に、北白川宮殿下が御代覧され、この場所から厳美渓をご覧になったことから御覧場と呼ぶようになった。そこに架けられた吊橋を御覧場橋という。

雄猪岩(おじしいわ)と雌猪岩(めじしいわ)

 御覧場の東屋の下の岩が雄猪岩(写真右)、向いの南岸の突き出た岩が雌猪岩(写真左)であり、ともに神社の狛犬が向き合った如き姿から、猪の名をつけて雄猪岩、雌猪岩と呼ばれている。

天工橋(てんぐばし)

 磐井川の右岸を猪岡(いのおか)と言い、左岸を五串(いつくし)と言う。かつて、この猪岡と五串を渡るには厳美渓の下流の浅瀬を歩いて渡るか、水量が多いと船で渡ったと言われている。急流な川であり犠牲者が絶えなかったことから、現在の天工橋付近に橋を架けることとなり、その橋の構造は、橋柱を用いず両側の岩に穴を穿ち大木を合掌型に組んだもので高さが10数丈(約20m)に及び、樹木の梢をかすめて雲橋のように見え、天狗様が造ったかのようだとのことから天工橋の名がつけられた。