骨寺村荘園遺跡01

【重要文化的景観】骨寺村荘園遺跡とは

Genpediaとは
 厳美の主な観光資源を詳しく解説したアーカイブ記事。その分野のプロフェッショナル監修による、厳美発信の詳細記事である。

今回の監修は…

監修者
西幸子(にし・ゆきこ)
骨寺村荘園交流館 学芸員

画像提供…一関市教育委員会

骨寺村荘園遺跡のあらまし

骨寺村全景01 一関市厳美町の本寺(ほんでら)地区は、その昔、「骨寺村(ほねでらむら)」と呼ばれた荘園で、中尊寺の経蔵別当の所領でした。

 骨寺村については、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』に村の四方の境が示されていて、その範囲が明らかです。また、中尊寺に伝存する古文書や、二枚の『陸奥国骨寺村絵図(むつのくにほねでらむらえず)』によって、中世の村の姿を視覚的に体験することができます。

 現在も、山々に囲まれた地域には、曲がりくねった水路や不整形な水田が広がり、イグネに守られた家々が点在し、神社や小さな祠が要所にまつられています。たえまない営みが醸しだす穏やかな農村の姿は、自然を巧みに利用して築き上げてきた、代表的な日本の原風景です。

 骨寺村荘園遺跡は奥州藤原氏ゆかりの荘園遺跡であるとともに、これまで見慣れてきた、美しい農村の風景が各地で失われつつある現在、伝統的な農村の景観が維持されている数少ない場所として、注目を集めています。

 平成十八年七月には、史跡としての価値に加えて、伝統的な農村景観が維持されていることが評価され、重要文化的景観に選定されました。

骨寺村荘園遺跡の歴史

骨寺村全景02

中尊寺経蔵と骨寺村荘園

 時は十二世紀。平安浄土の国づくりを理想にかかげた藤原清衡は、自らの発願による『紺紙金銀字交書一切経』の完成に功のあった自在房蓮光を、そのお経を納める中尊寺経蔵の初代の別当に任命しました。そこで蓮光は私領であった骨寺村を経蔵に寄進し、骨寺村は経蔵の維持のための費用をまかなう土地(荘園)として、清衡から認められました。これが、中尊寺経蔵別当領骨寺村のはじまりです。

 これ以降、骨寺村は経蔵別当領となり、藤原氏滅亡後は、この地方の地頭となった葛西氏との相論を繰り返しながら、十五世紀の室町時代まで伝領されていきます。鎌倉時代後期の二枚の『陸奥国骨寺村絵図』は、その過程で作成されたものと考えられています。

 江戸時代になると、この土地は仙台藩の直轄領となり、明治維新まで経営されます。骨寺が本寺とよばれるようになったのは、この時期といわれています。

骨寺村の由来

 絵図に「骨寺跡」「骨寺堂跡」という文字と、建物の礎石のような図像が描かれています。かつてここに骨寺という寺があって、絵図が描かれた鎌倉時代の後期には廃寺になっていたことが分かります。今はその跡も確認できませんが、その寺の名前が村の名前になったと考えられます。また、天台宗の高僧の髑髏(どくろ)から経を習った村の娘が、逆柴山(さかしばやま)にその髑髏を埋め、それが後に慈恵塚(じえづか)になったという伝説から、「骨寺村」とよばれるようになったともいわれています。

骨寺村荘園遺跡の所在地

所在地:〒021-0101 岩手県一関市厳美町字若神子241-2 骨寺村荘園交流館(若神子亭)

骨寺村荘園遺跡の沿革

平成15年 6月
「平泉の文化遺産」の推薦資産に、骨寺村荘園遺跡を追加
平成18年 7月
「一関本寺の農村景観」として国の重要文化的景観に選定
平成18年12月
「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」の推薦書をユネスコへ提出
平成20年 7月
第32回世界遺産委員会で登録延期の決定
平成21年 4月
第5回世界遺産登録推薦書作成委員会において「平泉」の構成資産から骨寺村荘園遺跡を含め4資産除外を決定
平成22年 1月
「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」の推薦書をユネスコへ提出
平成23年 6月
第35回世界遺産委員会で「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」の世界遺産登録が決定
平成24年 9月
「平泉の文化遺産」(拡張)が暫定リストに記載(骨寺村荘園遺跡を含む5資産の拡張を想定)