大槻玄沢を知る 一関市博物館
一関出身の名医・大槻玄沢を知る
江戸時代の名医。といわれて皆さんは誰を想像するでしょう?
おそらく解体新書の翻訳で知られる杉田玄白ではないでしょうか。
西洋医学は江戸初期に蘭学として、主に長崎出島のオランダ医師を介して日本に伝えられました。
杉田玄白は小塚原刑場で女囚の腑分け (解剖) に参加して、解体新書の記述の正確さに驚嘆し前野良沢、中川淳庵らと翻訳を開始します。
3年半の歳月をかけ安永3年(1774)についに完成させます。
ところが、この翻訳は正確ではありませんでした。これは杉田玄白自身がよく分かっていて、
「誠に櫓舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出せしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、唯だあきれにあきれて居りたる迄なり」(「蘭学事始」)
と当時のことを語っています。
無理もありません。当時、オランダ語の通訳は長崎にいましたし、
江戸では誰も知らない言語の本、まして未知の医学の書を翻訳したのですから。
まず世に出すことに意義ありとして出版を急いだのです。
杉田玄白はその後、不完全な解体新書の改訂を弟子の大槻玄沢に託しました。
玄白は、大槻玄沢のことを
「この男の天性を見るに、凡そ物を学ぶこと、実地を踏まざればなすことなく、心に徹底せざることは筆舌(ひつぜつ)に上せず。
一体豪気は薄けれども、すべて浮きたることを好まず。和蘭(オランダ)の究理学(きゅうりがく 自然科学)には生まれ得たる才ある人なり」(「蘭学事始」)
と評しています。玄白は、玄沢の堅実な性格と才能を見込んで、解体新書の改訂を託したのです。
大槻玄沢は、大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれました。
玄沢が9歳の時。開業医であった父が藩医となり、翌年一関に転居します。
13歳の時、同じ郷里の医師・建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示しました。
安永7年(1778)。玄沢が22歳の時、江戸への遊学を許されて、清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の元で医学を学びます。
玄沢は、長崎に4ヶ月あまり滞在しオランダ語を勉強。その後の仙台藩の江戸詰医師となります。
『重訂解体新書』は、寛政10年(1798)にほぼ完成していましたが、出版されたのは文政9年(1826)、
出版までにほぼ36年の歳月を要し、もはや解体新書の改定版の域を超え、玄沢の著書というべきものになっています。
この本には、玄沢が訳語として考案した言葉がでてきますが、「結腸」「鎖骨」など現代の医学用語として生きつづけているものも多く含まれています。
いかがでしょうか?
一般的にはあまり有名ではない大槻玄沢ですが、その功績は現代医学の礎を築いたといっても過言ではないと思いませんか。
一関博物館には、『重訂解体新書』を展示しているのはもちろんですが、
一関の歴史や骨寺村の歴史、また5つのテーマに分けた常設展示室をご覧になれます。
場所は、道の駅・厳美渓のすぐ横。
厳美渓からも歩いて行けます!
一関市博物館オフィシャルサイト